列車を降りると、僕らはタクシーを求めて駅を出た。
この街はオートリキシャーより圧倒的にタクシーの方が多い。
交通手段はタクシーが基本になる。
そしてコルカタはリキシャがまだ多く残る街だ。
そもそもリキシャとは、日本の“人力車”に由来していて、人力車と同じように手で車体を引きながら走るといったものだ。
その車体の前部分が自転車に変わるとサイクルリキシャと呼ばれるものになる。
自転車部分がバイクになり車のような作りになるとオートリキシャとなる。
人力車スタイルの“リキシャ”は新規のライセンスの発行がもう終了している為、今現在リキシャを引っ張り走っているおじいちゃんたちが亡くなってしまったら、もう利用することも見ることさえも出来なくなってしまう。
3年前に初めてコルカタを訪れたときに比べても、心なしか少なくなってしまったような気もする。
こうやって少しずつ景色が変わって行くんだろうな。
僕らは駅でタクシーを捕まえると、いつものように値段交渉を繰り返した。
お互いの言い値が少しずつ近づいていき、最終価格が決まる。よろしく、と握手を交わし、僕らはタクシーへと乗り込んだ。
目的地はサダルストリート。
安宿が連なるこの通りは、世界中からバックパッカーが集まってくる。
僕らは今夜の飛行機でこの街を出る。
宿泊の必要はなかったが、シャワーだけは浴びておきたい。
眠る必要もないだけに、ベッドの質も部屋の清潔さもどうでもいい。
僕らは何軒か宿を回り、中でも一番安いドミトリーにチェックインをした。
荷物を下ろし、腹ごしらえの為に街へ出た。
コルカタという街は、すぐ東にバングラデシュが位置している。
少し上にはネパール、その近くにはブータンやチベットも位置している。
よって、料理の種類も豊富なのだ。
インド料理にベンガル料理、チベット料理に中華もある。
コルカタで食べ物には困ることはまずない。
僕らは安めの食堂を選び、チョウメンと呼ばれるヤキソバのようなもので空腹を満たすことにした。
僕らは空腹が限界まで達し、気持ち悪い状態にまでなっていた。
味も悪くはなく、空腹の身体にチョウメンは猛スピードで飲み込まれて行く。
空腹で気持ち悪い場合、食べ物を口に入れた瞬間にびっくりするくらい回復するものだが、このときばかりは一向に気持ち悪いままだった。
食べても食べても気持ち悪さが消えない。
そして気持ち悪さは、吐き気へと変わり、下腹部の痛みへと変わった。
これはおかしい。
コルカタに着いた辺りから、少し体調が優れなかったが、全ては移動疲れと空腹が原因だと思っていた。
だが、明らかにこれは違う。身体がおかしい。
僕らは今回の旅で食べるものは全て同じだった。
違う料理を注文しても半分ずつお互いのものを分け合っていた為、違うものはひとつとして食べていなかった。
つまり、相方であるアカも同じ症状に陥っていたのだ。
食事を終えて宿に戻ると、トイレへの行き来を繰り返し、茶色く汚いベッドに倒れ込んだ。
そのまま数時間眠り込み、出発時刻が迫ってきていてもなかなか動き出す気が起きなかった。
それでもシャワーは浴びたい。
何の為に宿代を払ったのか分からなくなってしまう。
僕らはシャワーを交代で済ませ、その間トイレの行き来も繰り返し、荷物をまとめて空港へと向かった。
久しぶりのコルカタに胸を膨らませたのもほんの最初だけだったなと空港の待合室にぐったりと腰を降ろした。
あっけなくインド旅は終わりを告げようとしていた。
早く日本に戻りたいという想いだけが頭を埋め尽くし、旅を振り返る余裕すらなかった。
そして、この先もなかなかハードな移動が待っていた。
予定ではまずコルカタから中国の昆明へと飛んだあと、昆明から北京へフライト。
最後に北京から成田へのフライトがある。
占めて20時間の大移動である。
身体の状態とこの先の予定を考えると目眩がするようであった。
さらに飛行機がだいぶ遅れているようで、僕らは待合室で長いこと待たされることになった。
夜遅いこともあり僕らは浅い眠りの中に引き込まれていった。
何度か目を覚まし、搭乗案内がないことを確認するとまた眠りに落ちる。
その繰り返しを何回か続けていると、人が少なくなったことに気付いた。
不安になり、搭乗口へ向かうと、空港スタッフが3人掛かりで小さな乗客名簿らしき紙を覗き込み、慌てた様子で人数を数えている。
もしやと思い声を掛けると、「お前か!まだ乗り込んでない日本人は!走れ!」と大声で怒鳴りつけられた。
嫌な予感は大的中で、僕は待合室にアカを呼びに戻り、ふたりで飛行機へと走った。
連絡口から地上へ降りると移動バスが待機していて、またもや「急げ!」と声が飛んでくる。
バスも大急ぎで飛行機へと走り、なんとか間に合うことが出来た。
僕らは胸を撫で下ろし、お礼とお詫びを言い飛行機に乗り込んだ。
中ではもう荷物を棚上に上げていただろう人たちも皆すっかりシートに腰を下ろし待機していた。
乗客たちの視線が鋭く僕らを見ているような気がした。
僕らが座席に座ると同時に飛行機はゆっくりと動き始めた。
危ない、危ない。
最後の最後で飛行機まで逃すところだった。
そんな危機一髪トラブルがあろうとも、睡眠欲は素直に僕の瞼を閉じさせた。
昆明まで一度も起きることなく一瞬で着いてしまった。
3時間ほどのフライトではあったが、正味3分くらいにしか感じないほどだった。
時計を見ると、出発時刻が大幅に遅れたこともあり、到着時刻もやはり大幅に遅れていた。
乗り換えの時間まであと30分しかない。
身体もツライというのに、再び僕らは走る羽目となった。
荷物を受け取り、乗り換えの飛行機にチェックインしようとカウンターへと向かった。
しかし、もう時間が間に合わないという。
ウソでしょ?と何度も聞き返したものの結果は覆らず、僕らは昆明で帰りの飛行機を失ってしまった。
しかし、飛行機に間に合わなかったのは、僕らに非はない。
いや、明確に言えば少しあるのかもしれないが(笑)、それでも元々出発時刻が大幅に遅れたことに原因がある。
僕らはすぐに違う飛行機への振り替えを依頼した。
冗談じゃないよ、と怒り心頭で訴えかけに行ったものの、これは思いの他あっという間に新しい飛行機が用意された。
拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
出発時刻を確認しようと新しく受け取ったチケットを見てみると、そこで新たな問題が発覚した。
僕らは昆明から北京虹橋空港へと飛び、北京虹橋空港から成田へと帰る予定だった。
しかし、新しく受け取ったチケットには、“昆明→北京浦東空港”と表記されている。
つまり、北京に到着してから北京虹橋空港から北京浦東空港へと移動する手間が増えた訳である。
この体調でその手間が増えるだけでもやっかいなのだが、そもそも僕らはもうほとんどお金を持ち合わせていなかった。
北京で移動出来なくなる恐れもあるのだ。
冗談じゃないよ、とカウンターへと再び向かうと先程とは違ったスタッフが僕らの対応に当たった。
このスタッフが僕らの怒りにさらなる怒りの上塗りをすることになる。
その女性スタッフに僕らが納得いかない旨を英語で伝えると、「ワタシ日本語シャベレマスネ。」と、カタコトの日本語が返ってきた。
カタコトではあるが、日本語が分かるならその方が話が早いかとも思い、もう一度英語で伝えた内容を日本語で伝えることにした。
僕が伝えた内容としては、“飛行機を北京虹橋空港行きではなく、北京浦東空港行きに変えることは出来ないか”というものと“変えることが出来ないならば、空港間の移動費をそちらで持ってもらえないだろうか”というものだった。
その内容はちゃんと伝わったようで、「ハイ」「ハイ」と相槌を打ちながらその女性スタッフは聞いていた。
しかし、返ってきた答えは「無理デスネ!」というひと言のみだった。
その返しはあまりにもひどいだろうと、もう一度訴え掛けると、「アナタは、飛行機新シクシタ。ソレ出発シマス。時間デス。行キナサイ!」と命令口調なカタコトの日本語が返ってくるばかりで、カタコトの日本語で命令されるとこんなにも腹が立つのかと初めて思い知った。
納得出来ないと訴え続けると「アー!モウチョット待ッテクダサイ!アナタ人ノ話キク!」と怒鳴られ、舌打ちをされる始末。
そして、早く搭乗口へ行けと言われ、再び舌打ち。
もう話にならない。
僕は、日本語喋れるって言うならもっと勉強しろ!と女性スタッフに吐き捨ててその場をあとにした。
もういいよ。北京に行ければ何でもいい。
イライラした気持ちも飛行に乗り込み時間が経つと落ち着いてきた。
そうすると、あの女性スタッフに暴言を吐いたことを少し反省したりもする。
でも、やはりあのような言われ方は許せなかったりもする。
そんなことを繰り返しているとまたもや眠りに落ちていた。
北京虹橋空港に着くと、昆明で訴えたが話にならないという旨を伝えようと真っ先にカウンターへと向かった。
そこで空港間の移動費を求めると今度はあっさりとバスチケットを渡されてしまった。
これだけあっという間に要望が通ってしまっただけに、昆明の女性スタッフに再び怒りを覚えてしまう。
しかし、どっちみち問題は解決したので、考えるのはヤメることにした。
いいんだ、いいんだ。
結果良ければ全て良し。
バスで空港間の移動を済ませ、僕らは次のフライトまで時間を潰さなくてはならない。
しかし、身体も限界だ。
トイレを行き来しているだけなのにフライトまでの時間は近づいてくる。
あぁ、早く日本に帰りたい。
2時間ちょっとのフライトを終えると、そこはもう日本だった。
日本語の標識を見だけで安堵感から力が抜けてしまう。
そして帰国のスタンプをもらうとすぐにトイレへと駆け込んだ。
その後荷物を受け取り、再びトイレへと駆け込む。
成田への飛行機も遅れた為、僕らは終電ギリギリでなんとか家まで戻ることが出来た。
家に着くと同時に再びトイレへと駆け込み、温かいみそ汁と真っ白いお米が並べられた食卓でふるさと日本を感じた。
食べ終えると再びトイレへ駆け込み、シャワーで汗を洗い流し、トイレへ駆け込む。
こんなにトイレに駆け込むことが今後あるのだろうかと感じながら、久しぶりの我が家のベッドで眠りに就いた。
翌日は朝からバイトが入っていた。
眠ったのは夜中の4時近いというのに、朝10時出勤というハードスケジュールが待っていたのだ。
20時間以上の飛行機移動を終え、疲れた身体を回復する間もない内にアラームで目覚めた。
やっとの思いでバイト先へ向かい、ここでもトイレへ駆け込む。
やっぱり身体がおかしい。
その後数日間身体がおかしいと思いつつもバイトや遊びに出掛けていた。
行く先々でトイレに駆け込みながらの数日だった。
そして、やはりというか待ってましたと言わんばかりに体調が悪化。
39度超えの発熱を伴い、僕は完全にノックアウトされた。
救急病院へフラフラの状態で辿り着き、点滴が身体に流し込まれる。
旅は終わったようで続いていたのだ。
インドからのお土産を体内に残したまま生活をスタートさせたばっかりに、こんな状態だ。
その後僕は一週間家から出ることも出来ずに眠り続けるしかなかった。
もちろん、同じ食事を食べ続けていた相方のアカも同じ症状に陥った。
ふたりでずっと大人しくしているだけの一週間を過ごした。
僕らの体力も徐々に回復していき、ようやく僕らの旅も終わった。
“お家に帰るまでが遠足です。”という言葉の深さを知った旅だったような気がする。
4回目のインドでこのような仕打ちを受けるとは思ってもみなかった。
やはりインドは手強かった。
出逢いも、価値観も、トラブルも、感動も、
全てを提供してくれるインドはやっぱり最高だ。
さすがに、もうしばらくインドに行くことはないかもしれない。
でも、またきっと行く。
インドから呼ばれている気がしたら、
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