2012年12月29日土曜日

ラプンツェルの旅〜ロイクラトンの夜〜


僕らは夜空がオレンジに埋め尽くされるという圧倒的感動体験を共有し、次の日からは思い思いに次の街へと旅立って行く。


リョーはインドへ向かう為にバンコクへ。
伊東はパンガン島へ。
しおりさんたちはパーイへ。
ユースケとエリは日本へ戻るために、バンコクへ。
僕とアカとサナは、みんなを見送ってからパーイへ。
母は、そんな全員を見送ったあと日本へ。



コームロイを見るという目的のために集まり、
またそれぞれの旅を続けて行く。


僕らはパーイで少し遊んだあと、またチェンマイへと戻ってくる。
『チェンマイ・イーペン祭』が3日後にあるので、それに参加するためだ。
クラトン(灯篭)を川に流す『ロイクラトン』と呼ばれるお祭りが全国各地で行われるのだが、チェンマイでは『イーペン祭』と呼ばれている。



僕らが集合して、空にコームロイを放ったお祭りは『イーペン・サンサーイ祭』と呼ばれるもので、僕らは幸運にも滞在中にふたつものお祭りに参加できるのだ。


このお祭りの違いが日本人にはあまり浸透していないらしく、認識違いが多い。
過去に祭りに訪れた旅人のブログなどを辿ると、たいぶややこしいことになっている。全てをコームロイ祭りと括ってしまっている人も多いようだ。


僕らはそのイーペン祭に向けて、再びチェンマイへと戻ってきた。
3時間ほどバスに揺られてチェンマイに着いたのは、空がオレンジ色に染まり始めたころだった。
僕らは自転車を借り、祭りが最も賑わうというピン川周辺を目指し、ペダルを漕ぎ始めた。


車道から溢れんばかりの車の間を縫うように走り続けると、パレードのような行列にぶち当たった。
この辺りかな、と僕らは自転車を止め、そこからは歩いて行くことに。



パレードが行われている通りに入ると、現地民や世界各国からの観光客で溢れかえっている。
ミスチェンマイだか何だか分からないが、綺麗な女の人たちが『Loy Krathong〜Yi-Peng Festival〜』と書かれた横断幕を持って笑顔で写真撮影に応えている。





数えきれないほどのシャッター音に対し、毎度毎度足を止め、美しい笑みをカメラに向けている。




ゆっくり進むパレードに僕らもシャッターを切りながら、前へ前へと進んでいくと、その先ではコームロイが不規則に空へと放たれていた。



現地民や観光客が、各々で購入したコームロイに火を灯し、膨らんだコームロイが次々に空へと放たれている。



コームロイを一斉に空に放つイーペン・サンサーイ祭とはまた違い、不規則に放たれるコームロイはゆっくりと空をオレンジに彩っていく。


さらに奥へ奥へと進むと、オレンジの数は一層多くなる。
屋台などの出店の数も増え始め、どうやら目的地のピン川周辺のようだ。



川に架かる橋の上は、多くの人で賑わっていた。
ロケット花火のようなものを空に放り投げたり、コームロイに火を灯しながら記念撮影をしたり。



橋の上は眩いオレンジの灯りと真っ白な閃光、爆発音と白い煙、それに伴い歓声や笑い声が溢れていた。
橋の上から川を見下ろすと、灯籠流しも行われている。
灯籠は、大小様々な土台の上に花が色とりどりにあしらわれている。 
川をオレンジの灯りがゆっくりと星のように流れている。



僕らは、コームロイをあげている現地の学生と一緒に写真を撮ったり、花火を少し分けてもらったりしながら、のんびりとした時間を過ごしていた。



せっかくだから僕らもコームロイをあげようという話になり、売っている場所を求め彷徨っていると、ドラえもんの形をしたコームロイを見つけた。
なんだか嬉しくなった僕は、通常のコームロイの5倍近くもする値段だったが、迷うことなくお金を手渡していた。



スキップに近い軽い足取りで、ふたりが待つ場所まで戻り、共に火を灯し空へと放った。
どうやらドラえもんのコームロイは珍しかったようで、僕らはハリウッドスターなのではないかというほどのカメラを向けられた。






僕らの手から放たれたドラえもんは、ゆっくりと360度見渡しながら夜空へと消えていった。


これで、僕らは味を占めた。
楽しい。もう一回やろう。



今度は、ひとりひとつずつ購入することにした。 
先ほどは気づかなかったが、ドラえもんにはカラーバリエーションがあるらしい。
青、ピンク、オレンジの3色を購入し、僕らは橋の上へと戻った。



記念写真を残すべく、各々のカメラを周りの人に預け、火を灯す。 
すると、先ほどの何倍もの人集りができ始めた。


僕らを取り囲むように人の数は増えて行き、ドラえもんが膨らんでいくに連れ、シャッターの数も増していく。
スターの気分を堪能しながら、たくさんのカメラに自然と笑顔になってしまう。


こっちを向いてくれ、とか、このカメラでも撮らせてくれ、という要望に応えている間に、ドラえもんは膨らむ余地を無くし、もうすでにパンパンだ。


熱気がドラえもん内から溢れ、持っている僕らも熱くて堪らない。

我慢の限界となり、せーので空に放つ。



パンパンに膨れ上がったドラえもんは、手が離れた瞬間、猛スピードで空へと駆け上って行った。


ドラえもんが空へと消えてしまうと、僕らを取り囲んでいたギャラリーもゆっくりと散っていく。


中には、「そのドラえもんはどこで買ったんだ!」とか、「ほら見ろ!こんなに上手く撮れてるぞ」と声をかけてくる人もいる。
その場に居合わせたというだけで、ほんのひとときの会話がうまれる。
幸せなことだ。



満足した僕らは次に、灯籠流しをするために川辺までおりることにした。
川の周辺は灯籠流しの人で、所狭しと人が行き来している。
その合間で様々な灯篭が売られている。
値段も様々で、大きさやあしらわれている花の量などによって値段が前後するようだった。


ドラえもんで奮発してしまった僕らは、一番シンプルで一番小さな灯篭を選んだ。




ゆっくりと人と人との間を進み、川へと降りて行く。
なんとか、3人並んで灯篭を流せるスペースを見つけ、風からライターの火を守りながら、順番に灯りを灯した。




川辺は少し川から高さがあり、綺麗に川に流すのはなかなか難しい。
川に落ちるか落ちないかのギリギリまで体を乗り出し、最後は軽く放り出すように灯篭を手放す。





バシャっという音と共に大きく水面を揺らし、その後ゆっくりと態勢を整えながら流れて行く。





僕らはひとりひとつ灯篭を買ったわけだが、アカの灯篭はロウソクの灯りの方から水面に着地し、一瞬にして灯篭という称号を失ったカタマリになっていた。大失敗。灯篭に託した祈りも虚しく、ただ笑うしかない状況だった。



僕らが川からメインの通りに戻っても相変わらず賑わいは続いている。
空に放たれるコームロイの数も相変わらずだ。



僕らは屋台で空腹を満たしながら自転車のところへと戻った。



そのあとも賑わうチェンマイの街を自転車で周遊しつつ、屋台で別腹を満たしたり、バーに寄ってビールで乾杯したり。
祭りの夜を満喫しながら宿へゆっくりと戻った。



宿へ戻ってもまだピン川周辺は賑わっているようで、遠い夜空には小さなオレンジの灯りがあたたかく寄り添い合っていた。

2012年12月8日土曜日

ラプンツェルの旅


僕は3年前、たくさんのオレンジ色の灯りが空に浮かんでいる写真を見た。
数え切れないほどのオレンジの灯りは、僕の心を震わせた。
その写真と出逢ったのが3年前。



それから2年後、僕はその灯りに再び出逢った。
映画館のスクリーンをオレンジ色に灯しながら、その灯りは揺らめいていた。
『塔の上のラプンツェル』という映画で、僕の心は再び強く震えた。



オレンジ色の灯りの正体は、ランタン。
日本でいう灯籠流しを、タイでは空に放つ。


薄い紙で出来たランタンに火を灯すと、熱気球となり空へとのぼっていく。
オレンジ色の灯りは一斉に空に放たれ、ひと言で言えば『美しい』、ただそのひと言ではあまりにも事足りない景色なのだ。


見たい、行きたい、というただ単純な想いだけが僕の頭を支配した。



僕はその3年越しの想いを実現するために、タイはチェンマイへと向かった。



この先待ち受けるであろう感動をひとりではなく多くの人と共有したかった僕は、相方と共に航空券を取り、他にも誘い合わせ、結果として8人の仲間で集合した。
待ち合わせ場所は、チェンマイ。



僕と相方のアカがチェンマイに着くと、空港で母と合流。
昨年僕はインドへ両親を連れ出した。そこで味を占めた母が、今回は単独参戦。
そして、無事合流。



市内へと向かい、400バーツの宿にチェックイン。
日本円にして1000円くらい。
3人で泊まる訳だから、十二分に安い。
時間も遅かったので、近くのバーにて乾杯。はじまりの乾杯だ。



翌朝は、夏にインドで出逢った仲間と待ち合わせ。
これもスムーズに成功。ユースケと、旅の道連れエリ。




あとは、FURUSATOの仲間である伊東とサナと待ち合わせ。
彼らを空港へと迎えに行き、無事に待ち合わせ完了。



ユースケたちが待つ宿へと戻ると、アカが以前バンコクで出逢っていたリョーと遭遇。
偶然の再会で仲間は8人となった。




宿を泊まり合わせた仲間も加わり、12人の大所帯となり、ミニバンをチャーター。
オレンジ色の灯りを目指し、僕らの車は走り始めた。




目的地はメージョー大学。
車を少し走らせるとあちこちで夜空にオレンジ色の灯りがのぼり始めた。
その灯りを僕らは車で追いかける。
空に放つ時間はまだ一時間も先だ。
興奮と感動と、ほんの少しの焦る気持ちの中車は進む。




ドライバーのおっちゃんもだいぶ道を迷っているようで僕らの焦る気持ちは加速する。
夜空を彩るオレンジの数は少しずつ数を増していた。



そんなとき不安そうに運転していたドライバーが突然声を上げた。
「I got it!!」



よかった。
目的地に辿り着けるようだ。




僕らは胸を撫で下ろし、窓の外の無数のオレンジを眺め、期待に胸を膨らませた。




同じようにメージョー大学へ向かう車が増え始め、渋滞となり再び僕らは焦りを感じ始めた。
警察の誘導に従い、右へ左へ進んで行く。
路肩には所狭しと車が止められている。
その間を縫うように進み、やっとこさ見つけたスペースで僕らの車も停車した。
ここからは歩いて進むようだ。




僕らは待ち合わせ時間を決め、目的地と思われる方向へと歩き始めた。
蒸し暑い空気の中を、12人が早歩きで進んで行く。



10分ほど歩くと、屋台が並ぶスペースへと辿り着いた。
そこはさきほど見かけた数えきれないほどの路駐車の持ち主であろう人たちでゴッタ返していた。
あちこちで自由にコームロイ(熱気球)を空に放っている人たちがいる。
いよいよ目的地も近い。



僕は、遠巻きにコームロイが一斉にあがるところを見たいんじゃない。
真下から360度のオレンジに包まれたい。
そのためには、一斉にコームロイをあげる場所まで辿り着かなくてはならなかった




屋台が並ぶスペースから、人混みを掻き分けながら10分ほど進むと、その会場であろう場所にようやく辿り着いた。
よかった。間に合った。




しかし、人が多すぎて一歩も前に進むことが出来ない。
このままでは360度オレンジ天国の夢が叶うことはない。
僕らはどうしても前に進みたかった。




そんなとき目の前に強引に中へと押し入って行くタイ人を見つけた
僕らはそのタイ人が作り上げたほんの少しの空間に続いた。




道が少し開けたおかげで、内側に入り込むことが出来た僕らは、そのまま隙間を縫う様に進み、なんとか真ん中の方まで辿り着くことが出来た。
夢見た光景がすぐそばまで迫っていた。



それにしてもすごい人の数だ。
この人たちが一斉に空にコームロイを放つ。
想像しただけで、全身の毛穴が音を立てた。



さらに中央の方では僧侶がロウソクを持ち、なにか儀式のようなものを行っていたが、詳しくは見えなかった。
12人いた仲間も、はぐれて6人になっていた。



コームロイを空に放つ時間が近づいていき、今まで地面に座っていた人たちが一斉に立ち上がる。
コームロイに火を灯し始め、熱気球として大きく膨らみ始める。
コームロイの薄い紙を通して、あちこちでオレンジ色が揺らめいている。






フライングして空に放っているコームロイがいくつかある中、多くの人が辛抱強く合図のときを待っていた。
そして、スピーカーから流れる合図の音と共に、みんなの手からコームロイが空へと旅立っていく。




夜空にオレンジが広がる。

歓声があがる。

無数のシャッター音がする。







本当に数えきれないほどのオレンジが空にのぼっていく。
ここからは、もう何もコトバに出来ない。

圧巻。それだけ。







感動しているヒマもないくらいに、感動してしまった。
泣きそうになった僕の瞳は涙を流すことを諦めて、夜空に浮かぶ灯りを追いかけた。




母は泣きながら笑ってた。

リョーは夢中でシャッターを切り続けた。

伊東は写真を撮るのをやめて、自分の眼でとことん見ることにした。

アカは動画に収めようとしてたけど、カメラの先にあるオレンジ色を必死で目で追っていた。




みんなが口を揃えて言っていたのは『言葉に出来ない』という最大限の表現だった。





写真では伝えきれない。

動画でも伝えきれない。

言葉でも伝えられない。




そんな光景だった。





夜空に吹く風がコームロイをひとつの方角に運んで行く。
そのコームロイひとつひとつが寄り添うように大きな流れを作っていく。




星のようにも見える小ささまで空高くのぼっていき、ひとつの流れとなったコームロイは、オレンジ色の天の川みたいだった。







僕らは開始から一時間もその場から離れることができなかった。
みんなで感動を分かち合った記念に写真を撮って遊んで。
そんな時間は一瞬だった。



                                                            photo by Yusuke Abe




僕らは感動覚めやらぬまま、通勤ラッシュのような人混みの中を戻っていった。
来た道を戻るだけなのに、人の多さからまったく前に進めない。
やっとの想いで車へと戻り、乗り込んだ瞬間にスコールに打たれた。




圧倒的感動と、スコールから逃れられた幸運で、僕らは『満足』という言葉では足りない満足感に満ちた状態で宿へと戻った。




旅のはじまりにして、三年越しの幸福体験をしてしまった。





さて、残り9日間。
微笑みの国は、僕にどんな景色を見せてくれるのだろうか。




2012年10月21日日曜日

コルカタから日本へ


列車を降りると、僕らはタクシーを求めて駅を出た。



この街はオートリキシャーより圧倒的にタクシーの方が多い。
交通手段はタクシーが基本になる。




そしてコルカタはリキシャがまだ多く残る街だ。
そもそもリキシャとは、日本の“人力車”に由来していて、人力車と同じように手で車体を引きながら走るといったものだ。




その車体の前部分が自転車に変わるとサイクルリキシャと呼ばれるものになる。
自転車部分がバイクになり車のような作りになるとオートリキシャとなる。




人力車スタイルの“リキシャ”は新規のライセンスの発行がもう終了している為、今現在リキシャを引っ張り走っているおじいちゃんたちが亡くなってしまったら、もう利用することも見ることさえも出来なくなってしまう。
3年前に初めてコルカタを訪れたときに比べても、心なしか少なくなってしまったような気もする。









こうやって少しずつ景色が変わって行くんだろうな。





僕らは駅でタクシーを捕まえると、いつものように値段交渉を繰り返した。
お互いの言い値が少しずつ近づいていき、最終価格が決まる。よろしく、と握手を交わし、僕らはタクシーへと乗り込んだ。




目的地はサダルストリート。
安宿が連なるこの通りは、世界中からバックパッカーが集まってくる。




僕らは今夜の飛行機でこの街を出る。
宿泊の必要はなかったが、シャワーだけは浴びておきたい。
眠る必要もないだけに、ベッドの質も部屋の清潔さもどうでもいい。
僕らは何軒か宿を回り、中でも一番安いドミトリーにチェックインをした。




荷物を下ろし、腹ごしらえの為に街へ出た。




コルカタという街は、すぐ東にバングラデシュが位置している。
少し上にはネパール、その近くにはブータンやチベットも位置している。
よって、料理の種類も豊富なのだ。
インド料理にベンガル料理、チベット料理に中華もある。
コルカタで食べ物には困ることはまずない。





僕らは安めの食堂を選び、チョウメンと呼ばれるヤキソバのようなもので空腹を満たすことにした。
僕らは空腹が限界まで達し、気持ち悪い状態にまでなっていた。
味も悪くはなく、空腹の身体にチョウメンは猛スピードで飲み込まれて行く。




空腹で気持ち悪い場合、食べ物を口に入れた瞬間にびっくりするくらい回復するものだが、このときばかりは一向に気持ち悪いままだった。
食べても食べても気持ち悪さが消えない。
そして気持ち悪さは、吐き気へと変わり、下腹部の痛みへと変わった。
これはおかしい。
コルカタに着いた辺りから、少し体調が優れなかったが、全ては移動疲れと空腹が原因だと思っていた。
だが、明らかにこれは違う。身体がおかしい。





僕らは今回の旅で食べるものは全て同じだった。
違う料理を注文しても半分ずつお互いのものを分け合っていた為、違うものはひとつとして食べていなかった。




つまり、相方であるアカも同じ症状に陥っていたのだ。
食事を終えて宿に戻ると、トイレへの行き来を繰り返し、茶色く汚いベッドに倒れ込んだ。
そのまま数時間眠り込み、出発時刻が迫ってきていてもなかなか動き出す気が起きなかった。




それでもシャワーは浴びたい。
何の為に宿代を払ったのか分からなくなってしまう。
僕らはシャワーを交代で済ませ、その間トイレの行き来も繰り返し、荷物をまとめて空港へと向かった。





久しぶりのコルカタに胸を膨らませたのもほんの最初だけだったなと空港の待合室にぐったりと腰を降ろした。
あっけなくインド旅は終わりを告げようとしていた。
早く日本に戻りたいという想いだけが頭を埋め尽くし、旅を振り返る余裕すらなかった。





そして、この先もなかなかハードな移動が待っていた。
予定ではまずコルカタから中国の昆明へと飛んだあと、昆明から北京へフライト。
最後に北京から成田へのフライトがある。
占めて20時間の大移動である。





身体の状態とこの先の予定を考えると目眩がするようであった。
さらに飛行機がだいぶ遅れているようで、僕らは待合室で長いこと待たされることになった。
夜遅いこともあり僕らは浅い眠りの中に引き込まれていった。




何度か目を覚まし、搭乗案内がないことを確認するとまた眠りに落ちる。
その繰り返しを何回か続けていると、人が少なくなったことに気付いた。





不安になり、搭乗口へ向かうと、空港スタッフが3人掛かりで小さな乗客名簿らしき紙を覗き込み、慌てた様子で人数を数えている。
もしやと思い声を掛けると、「お前か!まだ乗り込んでない日本人は!走れ!」と大声で怒鳴りつけられた。
嫌な予感は大的中で、僕は待合室にアカを呼びに戻り、ふたりで飛行機へと走った。




連絡口から地上へ降りると移動バスが待機していて、またもや「急げ!」と声が飛んでくる。
バスも大急ぎで飛行機へと走り、なんとか間に合うことが出来た。




僕らは胸を撫で下ろし、お礼とお詫びを言い飛行機に乗り込んだ。
中ではもう荷物を棚上に上げていただろう人たちも皆すっかりシートに腰を下ろし待機していた。
乗客たちの視線が鋭く僕らを見ているような気がした。





僕らが座席に座ると同時に飛行機はゆっくりと動き始めた。
危ない、危ない。
最後の最後で飛行機まで逃すところだった。





そんな危機一髪トラブルがあろうとも、睡眠欲は素直に僕の瞼を閉じさせた。
昆明まで一度も起きることなく一瞬で着いてしまった。
3時間ほどのフライトではあったが、正味3分くらいにしか感じないほどだった。





時計を見ると、出発時刻が大幅に遅れたこともあり、到着時刻もやはり大幅に遅れていた。
乗り換えの時間まであと30分しかない。
身体もツライというのに、再び僕らは走る羽目となった。





荷物を受け取り、乗り換えの飛行機にチェックインしようとカウンターへと向かった。
しかし、もう時間が間に合わないという。
ウソでしょ?と何度も聞き返したものの結果は覆らず、僕らは昆明で帰りの飛行機を失ってしまった。





しかし、飛行機に間に合わなかったのは、僕らに非はない。
いや、明確に言えば少しあるのかもしれないが()、それでも元々出発時刻が大幅に遅れたことに原因がある。




僕らはすぐに違う飛行機への振り替えを依頼した。
冗談じゃないよ、と怒り心頭で訴えかけに行ったものの、これは思いの他あっという間に新しい飛行機が用意された。
拍子抜けするほどあっさりしたものだった。




出発時刻を確認しようと新しく受け取ったチケットを見てみると、そこで新たな問題が発覚した。
僕らは昆明から北京虹橋空港へと飛び、北京虹橋空港から成田へと帰る予定だった。
しかし、新しく受け取ったチケットには、“昆明→北京浦東空港”と表記されている。
つまり、北京に到着してから北京虹橋空港から北京浦東空港へと移動する手間が増えた訳である。





この体調でその手間が増えるだけでもやっかいなのだが、そもそも僕らはもうほとんどお金を持ち合わせていなかった。
北京で移動出来なくなる恐れもあるのだ。





冗談じゃないよ、とカウンターへと再び向かうと先程とは違ったスタッフが僕らの対応に当たった。
このスタッフが僕らの怒りにさらなる怒りの上塗りをすることになる。





その女性スタッフに僕らが納得いかない旨を英語で伝えると、「ワタシ日本語シャベレマスネ。」と、カタコトの日本語が返ってきた。
カタコトではあるが、日本語が分かるならその方が話が早いかとも思い、もう一度英語で伝えた内容を日本語で伝えることにした。





僕が伝えた内容としては、“飛行機を北京虹橋空港行きではなく、北京浦東空港行きに変えることは出来ないか”というものと“変えることが出来ないならば、空港間の移動費をそちらで持ってもらえないだろうか”というものだった。
その内容はちゃんと伝わったようで、「ハイ」「ハイ」と相槌を打ちながらその女性スタッフは聞いていた。




しかし、返ってきた答えは「無理デスネ!」というひと言のみだった。





その返しはあまりにもひどいだろうと、もう一度訴え掛けると、「アナタは、飛行機新シクシタ。ソレ出発シマス。時間デス。行キナサイ!」と命令口調なカタコトの日本語が返ってくるばかりで、カタコトの日本語で命令されるとこんなにも腹が立つのかと初めて思い知った。
納得出来ないと訴え続けると「アー!モウチョット待ッテクダサイ!アナタ人ノ話キク!」と怒鳴られ、舌打ちをされる始末。
そして、早く搭乗口へ行けと言われ、再び舌打ち。




もう話にならない。
僕は、日本語喋れるって言うならもっと勉強しろ!と女性スタッフに吐き捨ててその場をあとにした。
もういいよ。北京に行ければ何でもいい。





イライラした気持ちも飛行に乗り込み時間が経つと落ち着いてきた。
そうすると、あの女性スタッフに暴言を吐いたことを少し反省したりもする。
でも、やはりあのような言われ方は許せなかったりもする。
そんなことを繰り返しているとまたもや眠りに落ちていた。





北京虹橋空港に着くと、昆明で訴えたが話にならないという旨を伝えようと真っ先にカウンターへと向かった。
そこで空港間の移動費を求めると今度はあっさりとバスチケットを渡されてしまった。
これだけあっという間に要望が通ってしまっただけに、昆明の女性スタッフに再び怒りを覚えてしまう。




しかし、どっちみち問題は解決したので、考えるのはヤメることにした。
いいんだ、いいんだ。
結果良ければ全て良し。






バスで空港間の移動を済ませ、僕らは次のフライトまで時間を潰さなくてはならない。
しかし、身体も限界だ。
トイレを行き来しているだけなのにフライトまでの時間は近づいてくる。
あぁ、早く日本に帰りたい。





2時間ちょっとのフライトを終えると、そこはもう日本だった。
日本語の標識を見だけで安堵感から力が抜けてしまう。




そして帰国のスタンプをもらうとすぐにトイレへと駆け込んだ。
その後荷物を受け取り、再びトイレへと駆け込む。




成田への飛行機も遅れた為、僕らは終電ギリギリでなんとか家まで戻ることが出来た。
家に着くと同時に再びトイレへと駆け込み、温かいみそ汁と真っ白いお米が並べられた食卓でふるさと日本を感じた。
食べ終えると再びトイレへ駆け込み、シャワーで汗を洗い流し、トイレへ駆け込む。
こんなにトイレに駆け込むことが今後あるのだろうかと感じながら、久しぶりの我が家のベッドで眠りに就いた。






翌日は朝からバイトが入っていた。
眠ったのは夜中の4時近いというのに、朝10時出勤というハードスケジュールが待っていたのだ。
20時間以上の飛行機移動を終え、疲れた身体を回復する間もない内にアラームで目覚めた。
やっとの思いでバイト先へ向かい、ここでもトイレへ駆け込む。
やっぱり身体がおかしい。






その後数日間身体がおかしいと思いつつもバイトや遊びに出掛けていた。
行く先々でトイレに駆け込みながらの数日だった。




そして、やはりというか待ってましたと言わんばかりに体調が悪化。
39度超えの発熱を伴い、僕は完全にノックアウトされた。
救急病院へフラフラの状態で辿り着き、点滴が身体に流し込まれる。





旅は終わったようで続いていたのだ。
インドからのお土産を体内に残したまま生活をスタートさせたばっかりに、こんな状態だ。
その後僕は一週間家から出ることも出来ずに眠り続けるしかなかった。





もちろん、同じ食事を食べ続けていた相方のアカも同じ症状に陥った。
ふたりでずっと大人しくしているだけの一週間を過ごした。





僕らの体力も徐々に回復していき、ようやく僕らの旅も終わった。
“お家に帰るまでが遠足です。”という言葉の深さを知った旅だったような気がする。
4回目のインドでこのような仕打ちを受けるとは思ってもみなかった。
やはりインドは手強かった。





出逢いも、価値観も、トラブルも、感動も、
全てを提供してくれるインドはやっぱり最高だ。





さすがに、もうしばらくインドに行くことはないかもしれない。
でも、またきっと行く。





インドから呼ばれている気がしたら、
僕はまたいつものように飛行機に乗り込むんだ。